AGP日本語通信 第6号 (2012年5月号)
もう、どんどん出します。原稿があるんだから。
でもこれ、日本人は書いていなくて、みんなインド人が書いてるんですよ。すごい、と個人的に思います。
草の根からはじめましょう
コウムディ・クルカルニ
平和。それは一つのことばですが、世界にとって大切な意味があります。自然という大きな力は調和を保っています。しかし、自然によって創造された「偉大な」はずの人間は、自分勝手な意図で自然と自然の平和を守りません。その結果、限度をこえたら罰せられますが、私たちは今もその大切さがわかっていません。
平和とは何ですか。いろいろな意味や定義があります。たとえば、これは暴力がない調和の状態です。または、じゃまされない健康でゆたかな環境です。どうやって世界の、社会の、国の、それから自分のまわりの家族の、そして、心の平和を守って、きずなをむすんだらいいかを考えましょう。
私たちはまず、心の安らぎをもたなければなりません。ノーベル平和賞をもらった人たちの人生を見てみましょう。どうしてそんな大きな、大切なことができましたか?その力は、心の平和です。私たちは平和について国際会議を開きますが、自分の見方に立って争います。大きな仕事をするときは、自分のことをすっかり忘れます。私たちは本当に平和にしていますか?何か残念なことがあったとき、私たちはすごくがっかりします。だれかが悪いことを言ったときも、腹立ちをコントロールできません。小さい問題にも緊張します。なぜ?-なぜかというと、心の安らぎが少しもないからです。
だから、ちょっとだけ努力して、静かになって考えましょう。私たちは自分の文化や宗教に忠実です。でも、ほかの文化や宗教に敬意をもつことを忘れがちです。文化や宗教は平和でゆたかな生活のためにあります。人々の間の争いのためにあるのではありません。どうして自分の考えをほかの人に押しつけるのですか。私たちの文化宗教を守って、ほかの人の文化と宗教に敬意をはらいましょう。
きずなとは何でしょうか。それを私は子どものころから見ています。私の国インドはいろいろな宗教の人々がしあわせにくらしています。州によってことばがちがいます。でも、みんなインド人というきずなでむすばれています。これについて、私のふるさとはいい例です。コラプルという私のふるさとは、西インドにある小さないなか町です。ヒンドゥー教の古いお寺があることで有名ですが、いろいろな宗教の人々が住んでいます。
ヒンドゥー教とイスラム教の人たちは、みんなお寺とモスクへおいのりに行きます。ふたつの宗教のお祭りをいわいます。父の友だちのサジドさんとその奥さんはムスリムです。でも私をむすめのように思っていますから、おとうさん、おかあさんと呼びます。私たちはすべての祭りをいっしょにいわいます。そのむすこも妹のようにかわいがってくれます。彼の結婚式で、私はほんとうの妹のように式をつとめました。
インドでは、結婚式で花むこは花よめに特別な首かざりをかけてあげます。これは結婚したことをあらわすもので、結婚した女性は毎日つけます。夫が長生きするように。これも「きずな」だと思います。
母の大学の友だちスライヤさんは大学を卒業したあと、結婚して会えなくなりました。私たちが新しい家にひっこししたとき、ぐうぜんに30年ぶりに会って、ふたりともよろこびました。彼女もムスリムです。彼女ものむすこは私の親友です。ふたつの家族はしあわせにくらして、いっしょにそれぞれのお祭りをいわいます。イスラム教のお祭りのとき、肉を食べます。でも、私の家族はみんなヴェジタリアンですから、彼女は料理をべつべつに作ります。肉のあぶらが入らないように。これは本当にいいことではありませんか。
私たちの国では、あるお祭りの日に女性が兄弟にひもをむすんであげる習慣があります。私はムスリムの「おにいさん」たちのしあわせのため、彼らにもひもをむすびます。これもすばらしい「きずな」です。ぜひ大切にしていきたい習慣です。
インドがイギリスに支配されていたとき、父の友だちバルチェルさんの両親はイギリスからインドへ来ました。そしてコラプルが好きになって、イギリスへ帰りませんでした。今バルチェルさんは家族といっしょに住んでいます。クリスマスのとき、ケーキを作るのをてつだいます。真夜中にみんなで教会に行きます。
うれしいときも、かなしいときも、みんな近くにいるのはすばらしいことではありませんか?友だちになったら、あいての顔の色、宗教、お金などだれも見ません。見るのはひとつだけです。心。子どものころからまわりにそんな人々の強いきずなを見ています。世界を平和のひもでむすぶ強いきずなのあることを、ふるさとで子どものころから見てきました。そういう考えが大切なのではないでしょうか。きずなをむすび、平和をきずくのは人間の責任です。
石蹴り
スマ・アガラ
私は子供のころよく石蹴りをしていた。石蹴りは友だちとも、一人でも遊ぶことができる。子どものころあまり友だちがいなかったので、一人でもしていた。
まず地面に枠をかいて、適当な石を拾う。マス0は「ホーム」と、マス10は「セーフ」と呼ばれる。1巡目は、マス0に立って、石をマス1の中に投げる。次に、マス1をとばして、マス3まで各マスを片足跳びで進む。マス4と5の場合は、左足は4、右足は5におく。また、マス6は片足跳びで、マス7と8の場合は、左足は7、右足は8におく。マス9は片足跳びで、マス10は「セーフ」だから、両足で立つ。それから、帰り道は、マス9は片足跳びで、マス7と8の場合は右足は7、左足は8におく。それから、片足跳びをしながら、自分の石をマス0の方に蹴って進む。次は、同じように、マス0に立って、石を2、3、4…に投げる。
マス1から順番にマス9まで石を投げて、いちばん初めに完了した人が勝つ。
日本のケンケンパー
日本とインドの絆、オートリキシャ
ショバナ・クリシュナムルティ
インドの道路を走っているもっとも有名な自動車は、オートリキシャである。「オート」とも「リキシャ」とも呼ぶ。インドの観光に欠かせない経験とも言える。南インドでも日本でも人気である俳優ラジャニがオートの運転手の役をしてから、もっと尊敬されるようになった。
日本とインドのきずなの60周年の記念に紹介しなければならないことは、このリキシャの起源である。19世紀の終わりごろに日本で発明された人力車は、1850年からインドで使われていて、いろな工夫の末、エンジンで走る今のオートリキシャになった。たしかにリキシャの発祥の地は日本であるが、今は「リキシャ」という自動車は日本には存在しない。
そういうオートの乗り方を詳しく説明しよう。
まず、道路を走っているオートを手を振って呼ぶ。空いていたら止まるが、止まるまで必死に呼ぼう。
来たら、自分が行きたい所へ行くかどうか確認する。普通は運転手の都合で決める。自分の行き先まで連れて行けるオートが見つかるまで何台ものオートを探すことになる。
驚いたことに、見つかったら次は料金の話になる。大半の運転手はメーターを入れないで、決まったお金を要求する。特に外国人の場合はそれが決まりである。私もバンガロールに引っ越したとき、道がわからなかったので、何回もだまされたことがある。メーターで走るオートが見つかるまで頑張ろう。
やっと見つかった! だが、これからリラックスして行けると思ったら大間違いだ。楽しい冒険が始まるからご注意!! でこぼこした道、時々近道だというー人も歩いていない道を通るかもしれない。道がこんでいると、運転手は挑戦を受けたように思って、想像もできないもっと狭いところを走っていく。
バスの近くまで行ってブレーキをかけたりなど怖いことをした時など、オートが転ばないようにと神様に祈りながら行く瞬間を体験したことがある。そういういろいろな経験をしながらも、道を確かめるのを忘れたら、特に外国人の場合は回り道を使っているかもしれない。
やっと行き先に着く。メーターどおりにお金を払って、おもしろい体験したとか無事に着いてありがたいと思ったら、チップをあげてもいい。以上でおもしろいオートリキシャの冒険の終わり。リキシャを発明した日本人は、こんな使い方を全然想像もしていなかっただろう。
今月の川柳
まいにちの 家事は火事だよ 女には LM
お月さま すきなゲームは かくれんぼ LM
雨季がきた かさをさしたら こわれてた SA
きびしい先生? やさしい先生?
ギータ・ラグラム
六年前私は大学で教師として英語を教えていました。学生たちと仲よくなって、わくわくしていました。私にも教えることは大好きで、たのしかったです。あの年は私が仕事をした最初の年でした。大学でたくさん経験がある教師たちもいました。いつもいっぱいの私の教室を見て、ほかの教師たちはうらやんでいました。だれも私とちゃんと話をしないので、さびしい気持ちでした。
「教師はいつも学生と友達みたいにしないほうがいい」と同僚からいわれました。ある日大学で学生たちからフィードバック をもらいました。後で校長は、先生たちみんなを会議に呼びました。校長は皆の前で「ギータさんは学生に人気がある」と褒めました。 私はとてもしあわせでした。突然一人の同僚が立ちあがって、「学生と友達のようにすれば、私も学生たちにすきになってもらえると思うよ。私はきびしいですからきらわれます」と悪口を言いました。校長も前の感想と変わって、「ギータさんのfeed backはいい…。でも、もっときびしくしたほうがいいと思うわ」と意見を述べました。その日私はちょっといやな感じになりました。私は、学生たちが先生をすきなら、その先生の教える科目もすきになるだろうと思います。その年の最後に結果が出て、みんな英語でいい点数をもらって合格しました。私の気もかるくなって、とてもしあわせでした。
しかし、私にはいまも分からないことがあります。学生たちがちゃんと勉強するために、先生がきびしくするのが必要ですか? 学生とつき合うのはだめですか? 今日は私のいやだったことについて書きました。皆さんはどう思われるでしょうか?
今月のカンナダ語
Ivatthu Janavari eradanay thaariku.
(イヴァットゥ・ジャナワリ・エラダネ・ターリク:きょう・1月・2番目・日)
Naalay yaava vaara? Soma vaara.
(ナーレ・ヤーワ・ワーラ?:あした・どの・曜日/週?ソマ・ワーラ:月曜日)
Hoogi barthiini. (ホーギ・バルティニ:行って・来ます)
Hoogi banni. (ホーギ・バンニ:行って・来なさい>行ってらっしゃい)
Enta indha hatthara waregay paata maadthiini.
(エンタ・インダ・ハッタラ・ワレゲ・パータ・マーッティニ:8(時)・から・10(時)・まで・勉強・する)
Ondh pepsi kodi. Thannane dhu kodi.
(オンド・ペプシ・コディ:1・ペプシ・くれ。タンナネ・ドゥ・コディ:冷たい・の・くれ)
Iiga naanu kelasa maadthaa (maad+thaa) idhini.
(イーガ・ナーヌ・ケラサ・マーッタ・イディニ:いま・わたし・仕事・して・いる)
Avaru saha kelasa maadthaa idharey.
(アワル・サハ・ケラサ・マーッタ・イダレ:あの人・も・仕事・して・いる)
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