2013年4月7日日曜日

AGP 第17号


AGP日本語通信 17号 (2013年4月号)


鉄道の思い出
スマ・アガラ

インド国鉄は世界でもっとも大きい鉄道システムの一つであり、1日あたり約1800万人の乗客を輸送している。私はこのインドの鉄道を誇りに思う反面、とても恐ろしい思い出もある。
それは16年前のことだ。私は伯父夫婦と一緒にダサラ祭りの時、グジャラート州にあるバローダに住んでいた従兄の家を訪ねた。ダサラお祭りは歓喜(かんき){かんき}に満ちた祝典(しゅくてん){しゅくてんだったので、とても楽しかった。
お祭りが終わって、帰る日が近づいてきた時、とても寂しく感じた。午前11時出発の列車は2時間も遅れてやっと駅に着いた。バローダからバンガロールまで、電車で30時間ぐらいかかるので、伯父夫婦と私の切符はファーストクラス収容人数名の寝台車を予約していた。駅はとてもこんでいたが、乗車して、楽に座ることができた。5分後、1人の年配の女性が、同じ部屋の自分の席に座った。30分もたたないうちに、伯母と年配の女性が親しい友達のように話しはじめた。
私は伯父とトランプゲームをしようと準備していた時、隣の部屋から歌を歌っている若者の声が聞こえてきた。私は友達を作ろうと隣の部屋にのぞいてみると、8人の若い女性が歌ったり踊ったりして、楽しく時間を過ごしていた。私も加わった。数時間後、いろいろ話していたとき、伯父は手相占いがとても上手だということを若者に言ったら、みんな自分の手相占いをしてもらいたくてたまらなくなった。それで、小説を読んでいた伯父父を呼んだら、喜んでみんなにいろいろ話をして、手相占いをした。数時間のうちに皆とても親しくなった。
10時半ごろ、皆自分のところに戻って寝てしまった。寝心地{ねごこち}の悪いベッドだったので、私は、ぐっすり寝られなかった。翌朝4時ごろ伯父はベッドから起きて、部屋を出た。30分ぐらいたっても帰ってこなかったので、少し心配したが、たぶんお手洗いの前に長い列があるのだろうと思った。しかし、1時間ぐらいたっても帰って来なかったので、部屋を出て、あちこち行って見た。どのお手洗いの前にも長い列があったが、伯父はどこにもいない。部屋に帰って伯母を起こした。伯父は新聞を買いに降りて、乗車する前に列車が出発してしまったのではないか、と二人とも思った。夜明けに隣の部屋にいた若者も伯父が忽然と消えてしまったことを知った。皆で列車を探し回ったが、伯父の行方はわからなかった。次の駅で、駅長に報告して、バンガロールに住んでいる親族に連絡した。彼らにも伯父からぜんぜん連絡がなかったので驚いた。
2日目は隣の部屋の若者も心配してくれて、静かだった。何をしたらいいかわからないまま伯母と私はバンガロールに帰って来た。迎えにきた大勢の親族たちが駅で待っていた。
翌朝、テレビと新聞で行方不明のことを広告してもらった。2日間経っても、全然連絡がなかったので、まさかと思ったが念のために車中を調べてもらうと、トイレの中で脳梗塞(のうこうそく)の発作で倒れている伯父が見つかったのである。すぐ入院したが、2日後亡くなってしまった。
「乗客がいなくなった」という情報を受けた鉄道関係者は、なぜ車中を調べるという基本的なことをしなかったのだろうか。豪華でなくてもいいから、基本的なことの積み重ねができる信頼のおける鉄道になってほしいと思う。


鉄道の思い出
スシーラ・メノン

 クウウウウ… チクブクチクブクチクブク…
 うわあ、夏休みの思い出がする。
 幼いころ、毎夏休みに家族とケララにある母の田舎へ行っていた。学生の証明があれば、「ホーム・タウン」へ行くために切符の値段に割引があったので、2ヶ月前から、予約の準備、つまり予約申込書に学科長のサインをもらうなどを始めていた。試験が終わって、夏休みに入ると、どんなに嬉しかったか。ケララへ行く電車は夜バンガロールを出る寝台車だったので、荷物に空気枕やシーツなどもあった。そんなものは今のように電車のなかでもらえなかったから、自分で持っていかなければならなかった。電車に乗ったらすぐ窓側の席に座る。窓から見る夜のバンガロールは静かで、夏でも涼しい風が顔に打つ。窓から美しい景色を眺めるのが大好きだった。少し行くと、都会から離れて、ケロシンランプをつけている貧乏な人々の家が見えてくる。もうちょっと行くと光もなく真っ暗になってしまったら、寝る準備をし始める。寝ると、母なる電車が、赤ちゃんを揺りかごに入れてねかせるように揺れてくるので、ぐっすり眠る。まだ夢の中だが、「おきなさい、もうすぐ着くよ」と母の声が聞こえる。電車がケララのフォームについてくると、姉妹の競争がはじまる。フォームに待っているおじちゃんをまず見つける子がかつ。おじちゃんは背が高いのですぐ見つかる。すべての荷物を持って電車から降りると、電車が「クウウウ… チクブクチクブク」といって、行ってしまう。母なる電車が子どもを行かせるとき「気をつけて」といっているような気がした。



Secret
ショバナ・クリシュナムルティ

 数ヶ月前「Secret」という本が手に入った。題名がおもしろそうなので、読もうと思った。著者はロンダ・バイロンである。読めば読むほど、こころの安らぎを感じた。この本の概要は、「この秘密とは、人々は好むもの、幸せ、健康、財産など、なんでも手に入れることができる。なんでもできる、できないことはなにもない。希望には限界がない」ということだ。その秘密はなんだろう。それは「引力の法則」だ。それを実現させる方法もこの本に明らかに書かれている。
 まず最初は、自分の人生に起こるいいことも悪いことも、すべて自分自身の引力のおかげでできたことだと認識する。それから、自分の好みをじっと頭の中で積極的に考える。その願いがかなうと信じる。それが理解できるように、たくさんの人々の経験が紹介されている。時代を超えて、シェークスピアをはじめ、ニュートンやエジソンなどいろいろな偉い人にもみとめられるそうだ。
 私は帰国後、日本語の勉強を続けられないとがっかりしていた。この本を読んでから、日本語の進学を願って、きっとかなうと信じていたら、その数日後に日本語修士課程の広告が出て、入学もできた。私が学んだのは、何でもできる、できないことはない、ということだ。この「シークレット」の教えをしっかり守ることにした。


子供の時に住んでいた家
アラティ・ゴパラクリシュナ

 私は子供のとき、バンガロールのクマラパークというところに住んでいました。うちの隣に大きなピーパルツリーがあったおかげで、うちはとても涼しくて、夏でも過ごしやすかったです。
 うちは二階建ての一戸建てで、1階に伯父さんと伯母さんが大家として住んでいて、2階にわれわれが住んでいました。2階は1LDKでしたが、われわれが11人で住んでいました。その中には、私と兄と姉と、子供が3人で、高校や大学に通っていたいとこたちが3人いて、いつもみんなで遊んでいました。
 学校は10分くらいの歩ける距離にあって、伯母さんは同じ学校の先生でした。それで、学校の先生たちはみんな伯母の友だちで、うちに行ったり来たりしていましたので、学校にいても親類のうちだと思われるほどいい環境でした。
 今も印象に残っていることは、いとこたちや近所の友だちと遊んでいたことと、家族みんなでテレビを見たり、旅行に行ったりしたことです。


私の日本での生活
サンギータ・デラムパディ

 去年の日に日本に行きました。福島県の天栄村では「かつらぎホテル」に泊まりました。昼間は放射線と天栄村の農業について勉強しました。その後で、他の学生は岩手県と宮城県へ行って、他の学生は東京と大分と広島へ行きました。平日は、私と私の12人の友達は広島の大学へ行っていろんなことを勉強して、週末は平和と原爆のついて勉強しました。私といっしょに他の7人の学生―そのうち3人は男性!―は広島女学院大学へ行って、他の学生は広島経済大学と広島国立大学で勉強しました。最初は昔話や民俗学のようなことを勉強したかったけど、授業にはいったら、全然何もわからなくて、全部英語のコースの授業へ行くことにしました。でも、その日本語のコースを聞いていた時、新しい友達が出来ました。彼女の友達とも友達になって、本当に嬉しかったです。毎週水曜日は大学で授業がなかったけど、いつも昼休みにカフェテリアへ行って、友達といっしょに昼ごはんを食べました。私は新しい学生でしたが、いつも楽しく話して、わからない時は、英語と日本語でがんばって説明してくれました。私の絵もかいてくれました!
 私たちのプログラムのメンバーは全部で5つ以上のコースを受けることができなかったから、最初は宿題が終わったあとはひまな時間がたくさんありました。その時は近くのスーパーで食べ物を買いに行きました。牛乳とヨーグルトとインスタントごはんを買って食べていたのですけど、朝かわったパンを食べた日は、授業の前と後にお手洗いへ行くのが普通になりました。日本行った最初の2週間の時は、「ベジタリアンだったら日本の生活はむずかしいから、がんばって何でも食べよう!」と考えていましたけど… がんばって食べたら、へんな味だった。だからまたベジタリアンになりました。その後では、いつもインスタントのイタリアンのベジタリアンごはんを買って、自分で何か簡単な料理を作って食べていました。
 週末はいつも被爆者の話を聞いたり、広島平和記念公園へ行ったり、平和と原爆と広島の歴史と関係がある講義を聞いたり、いろんなワークショップへ行ったりしていました。広島の別々の大学で勉強していた「絆」プログラムのみんなは、週末このプログラムのため集まりました。女学院大学で勉強している女子学生はアイリス館に住んで、男子学生は近くのアパートに住んでいました。台所と洗濯機とヒーターがあって、アイリス館は便利なところでした。毎月12回ぐらい広島の「絆」プログラムのみんなはアイリス館に集まって、いっしょにごはんを作って食べました。
 毎月1週間は東北へ行くことになっていました。東北へ行って、東日本大震災について勉強して、津波が来たところ、地震があったところへ行きました。二本松へ行った時、人生で初めての地震を経験しました。東北へ行く前の夜、いつも寝ないで宿題をして、新幹線に乗っている時間寝ていました。東北へ行って、「絆」プログラムの他のメンバーに会うのは楽しいことでしたけど、東日本大震災の話を聞くのは悲しかったです。東日本大震災のついてビデオを見るのはつらかったけど、見なければならなかった。いつも東北へ行った時は温泉に泊まっていたけど、みんなといっしょにおふろに入らないで、誰もいない時間早くシャワーを浴びて、温泉には入らないで、すぐ出て来ていました。東北へ行った時食べたベジタリアン料理は天国のようにおいしかったです。
 友達がふえてきて、私は「絆」プログラムの友達と女学院大学の他の外国人の友達と遊びに行きました。マレーシアとアメリカからの友達と私の大好きな「ホビット」を2回見に行きました。「レ・ミゼレブル」も見ました!そして夜ひとりで「ワン・ピースZ」という映画を見に行った時、映画館のなかでいつものように寝てしまいました。
 2013月になると忙しくて、日本人の友達と水曜日の昼ごはんを食べることはあまりできませんでした。最後のプレゼンテーションの準備したり、大学の先生のプログラムに行ったりしました。そしてホームステイへ行った時、自分で野菜お好み焼きを作りました。プレゼンテーションが終わったら、帰る準備をはじました。広島平和記念資料館へ行って広島と原爆についての本をたくさん買いました。中沢啓治が書いた「裸足のゲン」の英語に翻訳した漫画を全部買うことができました。ANT-Hiroshima から原爆についてのDVDを買うこともできて、よかったです。広島での最後の日には、荷物を全部インドへ送って、大学で1人の友達と会うことしかできませんでした。
 2月には、成田空港へ行く前、宮城県へ行きました。あの時津波が来た場所へ行って、いろんな方たちの話を聞きました。東北の方たちがすごくがんばっているのを見ました。その後でプレゼンテーションをするために東京へ行きました。荷物をたくさん送りましたが、残っていた物は重過ぎ!プレゼンテーションの前の日は、「絆」プログラムの友達といっしょに代々木公園と渋谷へ行きました。プレゼンテーションの日はおなかが変。東京から成田のホテルへ行く日、またみんなといっしょに浅草と浅草寺へ行きました。
 インドへ戻っても、日本を忘れない。日本人は優しい、日本には自然が多い。お手洗いはきれいで便利過ぎ。おばあちゃんたちと子供はすごくかわいい。女学院大学の人はみんな優しい。どこから見てもかわいい犬。いろんな国の友達がみんな家族のようにいっしょに住んでたので、離れるのは難しかったです。私たち13人のコーディネーターさんはお母さんのように優しい。だから、あんな機会ができて、いろんな方に感謝しています。日本は本当に天国た!

(サンギータさんはキズナ・プロジェクトで20129月から20132月まで日本に滞在しました)


南アジア日本語弁論大会
 323日コロンボで行なわれた南アジア弁論大会シニアの部で、ディパンジャナさんが2位になりました。バンガロールから南アジア大会への参加は初めて、だから入賞も初めてです。
 シニアの部 2位 ディパンジャナ・デイ「え、まさか男性?」(BNK)


MA Japanese Course. Centre for Global Languages, Bangalore University.
P.K. Block, Palace Road, Bangalore - 560009, India

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